窓から差す微かな光が、ぼんやりと瞼を開けさせる。黎明、きんと澄んだ空気が漂う高原の小屋の中で、レノックスは目が覚めた。
枕元にある眼鏡を掛けながらベッドから起き上がり、大きく伸びをする。羊飼いの朝は早いが、軍役についていた頃の生活リズムに比べれば辛さはなかった。
カーテンを開けても薄明りの部屋で、手早く着替えて朝食を作る。手間は掛けられないが腹持ちするものを食べないといけず、かといって味は諦めたくないので保存食は却下、となると選択肢は限られてくる。
大きめのマグに衛生に気を配って保存した羊の乳と、昨晩切っておいた果物を数切れ入れる。そこではたと、今まで魔法を使わずに身支度していたことに気付く。どうにも朝はぼんやりしてならない、と思いながらマグの上に手のひらを重ね、小さく呪文を唱えた。
「《フォーセタオ・メユーヴァ》」
マグの中がぐるりと混ざり合い、即席のスムージーが出来上がった。
羊飼いの心得
南の国の住人ならばほとんどが知るところだが、夜明け前が最も暗く、同時に最も星が見えやすい。農業など、自然を相手とする生業で生活する者は自然に気付くその数瞬を、今日は逃したらしい。東の空から昇ってくる砂の粒のような小ささの太陽を眺めながら、ちょっと残念に思う。朝露に濡れた草の香りと朝の冷涼な空気で肺を満たし、眠気を払っていると、太陽と同じく砂の粒のような小ささの白い物体が空に浮かんでいることに気付いた。
だんだん近づいて大きくなってくる白い塊を見つつ、羊小屋の戸を開けることを少し遅らせることにする。来訪者をもてなす程度の時間なら羊も怒らないだろう。
働き者だけが知っている、早朝の星々の輝きを眺めながら箒で飛んできたであろうフィガロが、白み始めた空を背負いながらレノックスの前に降り立った。
「おはようレノ」
「おはようございます。今日はどうしたんですか」
「お医者さんの仕事の帰りに寄っただけだよ」
その割には珈琲くれる?と聞いてくるので、羊を放牧させてからだと答える。フィガロが仕事の合間を縫って人里離れた羊飼いの小屋まで顔を出すのは常のことだった。こうして放牧の為にいつもの場所でないときでも。何日の間隔で訪れることも気まぐれだったが、訪れる時間帯も気まぐれだった。今日のように朝日が昇りきる前だったり、日差しが和らぐ夕暮れだったり。ただ、挨拶だけで済ませるときは飲み物を所望しないので、何か飲み物をと言ったらそれはお喋りしようと誘っていることと同義だった。
いつものようにフィガロが塀の外側にある木製のベンチに腰掛ける。付き合いも長いので、座る勢いやベンチの軋み方でどれだけ疲れているのが分かる。今日は結構疲れている方らしく、徹夜だったのかもしれないと察した。
羊小屋の戸を開け、列をなして外へ向かう羊を見送った後、珈琲をマグに注ぐ。羊飼いは職業として人がいない広い草原に住むものだが、意外なことに来客は多かった。それゆえマグカップはいくつかあったが、フィガロが特別気に入っているマグが一つあった。二番目に厚口のマグだ。
魔法で適温に温めることを忘れずに、自分の分とあわせて二つを片手で持って玄関の戸を開ける。
するとフィガロ分のマグはふわふわと浮き始め、無事魔法を使った張本人の手の元へと着地する。フィガロが湯気の立つ珈琲を啜るのを横目に見ながら、レノックスも隣に座った。
レノックスは常に羊に目を向けているので、話し相手も自然とだだっ広い草原に散らばる羊を眺めることになる。こくりと嚥下して、フィガロが切り出した。
「今日寒くない?」
「そうですね。冷えたんですか?」
魔法使いが肌で感じるような天候の話をするのは稀だった。たとえ極寒の北の国の吹雪の中でさえ、大した防寒対策もせずに行って帰って来れる位に身にまとう空気の温度を調節するのはどんな魔法使いでもできる基本的なことであるので。
「徹夜だったから居眠り運転しないようにちょっと冷やした」
くあ、と欠伸をしながらフィガロは言う。フィガロが徹夜する程の仕事は何だったのだろうかと気になりはするが、医者の職業倫理は知るところだったので、レノックスはあまり聞かないようにしている。彼は大魔法使いの顔よりも医者の顔を使ってきた年月が少ないはずだったが、驚くほどに医者という職に対して真摯であり、世間話の合間にさえ絶対に患者と病状が結びつくような情報を他人に零すことはなかった。
「眠気も払えるものでしょうに」
「野暮だなあ。眠い中飲むレノの珈琲が最高なんだよ」
そう言われて光栄だが、「レノの珈琲は甘すぎる」と言われたときのことが脳裏によぎった。そのときのものと何ら変わっていないことは黙っておくことにする。
レノックスの珈琲は糖分補給と眠気覚ましを兼ねてシュガーをかなり多めに入れたミルクなしの珈琲である。甘すぎると言われても確かに納得する作り方をしているので、当時は特に思うところもなかったが、今になってちょっと笑えた。
微かに笑ったレノックスに何を思ったのか、それとも先の台詞に今更ながら照れたのか、フィガロの良く回る口にしては珍しく会話が途切れた。
ちょうどその瞬間、レノックスの目に一頭の羊が目に留まった。わずかながらも右前脚をかばうような歩き方をしているのが気になって、身を乗り出してしばし観察する。
フィガロも隣にいる男が羊飼いの空気を身に纏ったことに気が付いたので、いつものようにレノックスがどの羊に注目しているのか探してみていたが、いつものように分からない。レノックスの目線の先には三十頭は羊がいて、判別がつかないのはもちろんのこと、違和感を覚える羊はいなかった。
どうやらレノックスは羊を近くで看ることにしたらしい。「よろしくお願いします」とマグをフィガロに手渡すと、箒を取り出し身軽な動きで飛んで行った。
動かないときは動かないのに早く行かないといけないときはちゃんと早いんだよな、と思いながらフィガロは甘い珈琲を飲む。
意外なことに、問題の羊らしき場所についた後、レノックスはUターンして戻ってきた。よく見ると、羊を魔法で小さくして抱えている。そんなに急患だったのかと驚いたが、本人とその羊は特に焦った様子もなかった。行ってきた身軽さそのままに箒から降りたレノックスにフィガロが尋ねる。
「ケガかな?」
「いや、どうでしょう。ちょっと歩き方が変だったのでそうかもしれません」
ぽふ、と穏やかな音を立てて魔法が解けて元通りのサイズの羊になった。確かに普通に立っているだけでも左側に重心が寄っているような気がしなくもないことを確認したフィガロが再度尋ねる。
「お医者さんの出番かな?」
「お願いできますか」
「もちろんだよ。《ポッシデオ》」
朝日よりも穏やかな光が羊の右前脚を包む。最初は探るように、そして原因を見つけたらすぐに癒す。十秒とかからずに治療してみせた現世界一の腕を持つ医者は、それでも重心が寄ったままの羊に首を傾げた。早業過ぎて治ったことに気付いていないと分かったレノックスは、優しく羊を撫でる。するとまるで撫でた羊飼いの手が合図だったかのように、羊はゆっくり三歩分歩いた。そこで違和感がなくなったことに気付いたらしく、二人に向かってめえ、と一鳴きしてから群れの方へと戻っていった。
二人はなんとなく黙って羊を見送っていたが、ふわりと冷たい風が吹き抜けたことをきっかけに向き直った。
「軽い炎症を起こしてた。お医者さんになれるね、レノ」
「いえ、治癒魔法は医者になれるほどでは……ありがとうございました」
「いやいや。医者に必要な能力の第一はいつも通りじゃないことを見抜くことだよ」
羊なんて不調を起こしても分かりにくい方の動物に分類されるじゃない、とフィガロはベンチに向かいながら続ける。羊飼いであるのはレノックスであったが、フィガロの方が羊の生態には詳しいような気がするほどに色々なことを知っていた。元々南を開拓するために飼うべきは羊かヤギかで迷いなく羊だと即答した辺り、実際詳しいのだろう。二人が座りなおしてからも話は続く。
「レノはどうして羊の変化に気付くのが早いのかな。やっぱり愛?」
興味深そうに緑色で菱形の不思議な二対の虹彩がレノックスの顔を覗き込む。どうだろう、とレノックスは思う。愛と言われればそうなのかもしれないが、慣れと言われたらそうなのかもしれない。中々朝に考えるのには難しい質問だったが、清涼な空気が頬を掠めていったとき、頭に何かひっかかるものを運んできた。
「黄金の蹄……」
「ん?」
「前言っていましたね。羊は黄金の蹄を持っていると」
以前、フィガロに問いかけたことがある。いや、もしかしたら今のように雑談の中で自然に出てきた言葉だったのかもしれない。それくらいに古い記憶だったが、確かに覚えている言葉だった。
羊が住む土地は、農業や畜産に向かない固い草で覆われた土地でもいい。そこで羊は草を食み、柔らかい草を育む肥料を排出する。そしてさらに、羊が踏む大地は程よく豊潤な草が育つための刺激となる。ゆえに、羊は黄金の蹄を持っている。
「人間が大地を踏んでも、魔法使いが大地を均しても、土地は豊かにならないでしょう?」
「そうだね。俺でもだいぶ無理だったんだからオズもきっと無理だよ」
世界最強の名前をそう気軽に出して良いのか判断が付かなかったが、実際どれだけ魔力があったとて出来ないことだろう。自然は絶妙なバランスで出来ている。張りぼての要領で元に戻すことは容易いが、恒久的に生態系が回ることができるような環境を作り出すことはまずできない。心で想像できないからだ。
「でも、羊はそれをなんでもない風にできるんです。それを思うと、俺も彼らに何かしたいと思う……ような気がします」
「恩返しってこと?彼らは苦もなくやってることなのに?」
「それに近いかもしれません。怪我をしたりすることでいつも通りにいかないことがあるなら、その障害を取り除くこと位はしてやりたいとは思いますね」
そっか、とフィガロは呟いて顔を目の前の風景に向けた。何を考えているのかは正確に分からないところではあるが、その声の響きとしては投げやりではなく、理解を示すものだった。これは愛かと言われて直接的には答えてはいないものの、満足したらしい。微かに羊の鳴き声が聞こえる中、レノックスはその横顔を見て、ふと思うところがあった。
「フィガロ先生みたいですね」
「ん?」
意外なところに話がすっ飛んで行ったのを感じたのか、フィガロは勢いよく振り向く。「何が?」
「黄金の蹄を持つ羊が、です。俺たちよりも労せず様々なことを成し遂げることが」
「……」
黙っているので顔を向ければ、ものすごい笑顔かつ左手で口を覆ったフィガロがいた。口元を隠してなお隠しきれないその喜色に効果音をつけるなら、にまにま、によによ、だろうか。
長い付き合いなのでこの後発せられる言葉が大体予想がついた。軽口を叩くのだ。
「俺のこと口説いてる?」
「いえ、労いたいと思っています」
フィガロの軽口にうっかり黙っているとその後口を挟む間もなく凄まじい勢いで軽口に軽口を重ねられる。その前に一言言ってやるのが躱すコツだった。
とはいえ労いたいのは本当なので、行動でも示すことにする。片手を口元に持って行ったがためにこちらの方へ差し出される形になったマグの飲み口に右手をかざす。
「《フォーセタオ・メユーヴァ》」
フィガロが黙って自分のマグを怪訝そうに検分する。そこそこのシュガーが珈琲に溶けていくのが見えたのかもしれない。シュガーを追加すると同時に温めなおしたので、フィガロが作るものに比べると少々不格好なシュガーは全て溶けるだろう。
自分の珈琲に起こった魔法を理解したフィガロは、可笑しそうに笑いながら言った。
「じゃあねえレノ、俺も俺に出来ないことを難なくする羊飼いのレノを黄金の蹄を持つ羊みたいだなと思うよ。《ポッシデオ》」
どちゃっと音がする程度に多く、形のよいシュガーが沢山自分のマグに入った。それから珈琲がくるくると渦を巻き、収まったと思ったらシュガーが綺麗さっぱり溶けて湯気が立つ珈琲になった。レノックスが入れたシュガーよりも確実に多いシュガーが溶けたそれの甘さを想像して、やめた。微かに残る眠気を吹き飛ばすだろうという程度のこと位しか想像できなかったからだ。それにすぐに味わうことになる。
なおも面白そうなフィガロが珈琲をくるくる手回しながら提案する。
「レノ、乾杯しよう」
「何にですか」
「俺たちの黄金の蹄にさ!」
きん、とマグを一方的にぶつけるとフィガロは暴力的に甘い珈琲を飲み干した。「甘すぎる!」といってけたけた笑うフィガロは底抜けに嬉しそうだった。
酒で乾杯することはあれど、珈琲で乾杯したことはなかったかもしれない。「黄金の蹄に」と呟いて、レノックスも一気飲みする。
眠気が欠片もなくなった二人を、昇りきった朝日が優しい光で照らしていた。
fin.