ムーンロードは渡れない

 視界の果てまで満天の星空が広がっていた。
 いま舟の上で寝そべっているフィガロにとって、今宵の星空はあんまりにも近く感じるものだから、手を伸ばして星を掴もうとして、やめた。この星空と自分の間に何かを介入させるには、あんまりにも無粋に感じたからだ。
 夜空を飾る星々の瞬きを眺めながら、この小舟のオールを漕ぎ続けているレノックスを思う。こんなにも綺麗なのに、頭上を見上げないのはもったいなくはないかと。声に出して呼びかける前に、オールが船の中に入れられた音がした。そのまま人工的な音が消え、耳に入るのは風の唸りと船底を叩く水音だけになった。静かな湖の中心で、彼とこの眺めを共有していることが不思議な心地がした。

 ムーンロードは渡れない

 きっかけは些細なことだった。今晩も二人で何回目かも知れない晩酌をしていた。

 診療所の扉を閉め、本日書いたカルテの総まとめをして、薬剤の在庫について調べ、と医者の今日を終わらせるための仕事は数多くあり時間のかかるものだったが、フィガロはそれらを丁寧に片付けた後に箒に乗って魔法舎へ向かった。診療所の玄関に魔法をかけて、夜間急患が訪れても気が付けるようにするのも忘れない。
 レノックスの部屋の扉をノックしたのは夜もそこそこ更けたころだったが、アポなしで「なんとなく来ちゃった」というどうしようもないような魔法使いに対してもこの部屋の主人は晩酌の準備を整えてくれる。医者と賢者の魔法使いを往復する繁忙さはレノックスでも知るところであり、一応労おうという意思はあった。
 別に当日の晩であっても連絡してくれれば自分も南の国に向かう、とフィガロの体力を慮ったレノックスが言ったことがあった。対して返答は、次の日任務があったらどうするのさ、というけろっとしたものだった。ここに関しては年寄り扱いされたくないらしい。酒の量だったり箒を飛ばすスピードだったりを次の日に響かない程度に控えることにしているか、そもそも次の日に休日を取っているか。流石の器用さで日々をこなしていた。

 二人が喋る内容は特に決まっていない。フィガロが今日見損ねたルチルの目を見張るほど美しい風景画―彼はなぜか動いたり生き物でなかったりするなら写実的に描ける―のことについて、ミチルがブラッドリーに何か教わっていたがミスラに文句を言われ乱闘が起こったのでミチルを回収したことについて、今日診療所の戸の上の方の蝶番が一個だけ笑える勢いで外れたので患者の緊張をほぐす必要がなくなったことについてなどなど。相手が聞けば喜ぶだろうことも、心配事や相談事もどうでもいいようなことも全てひっくるめてだらだら喋っていると、時計の針はいつも軽快にくるくると回る。
 毎回ではないが、話のキリが良くなるまで喋ろうと思って夜が明けていることはままあった。場所がレノックスの部屋だったりフィガロの部屋だったりするので魔法舎の誰かに何かあることないことを察せられそうだが、それよりもシャイロックのバーでぐでぐでに酔っ払ったフィガロが夜明けと共に目撃されるのが圧倒的に多かったので心配には及ばない。今夜も夜を明かすコースだろうと二人が暗黙の了解を交わしていると、転機になる言葉をレノックスが言った。

 「今日はティコ湖の星空が綺麗に見えそうですね。」もうとっくのとうに日付は回っていたので、これが指す今日は今夜のことなのだが、問題はそこではなかった。ちらりと窓を見やって大いなる厄災の様子を伺うと今日は満月、星を見るにはあまり向いていない日に当たる。そこに気付いてしまったフィガロは思わず突っ込んでしまった。「満月の夜に星空が見られる訳ないだろう。」
 フィガロの口調がちょっとからかうようなニュアンスが入っていたのも災いして、レノックスは少しむっとしたように反論した。曰く、朝方の闇が深い時間帯であるならば、美しい星空と満月を同時に見ることができると。
 フィガロは二千年の間に起きたまま夜を越す日は数えきれないほどあったが、流石に満月でなおかつ夜明けの直前、注意して空を見たことはなかった。そんなものであったので、本当なのかと首を傾げた。
 今思えばそもそも職業として早起きが必要になる羊飼いのレノックスの言うことが正しいのは目に見えていた。それゆえここで納得しておけば何も始まらずに済んだはずのものだが、うっかり二人の脳裏に賢者の言葉が浮かんだ。
 「小さな諍いも解消するように」という意味の言葉だ。それが積もり積もって離別やそれよりもひどい結末の原因になるからと。

 それを指摘したレノックスが、確認しに行こうかと問いかけたとき。それはもう、ごねた。
 夜中に箒を飛ばすなんて方向が分からなくなって自殺行為だと言えば、この明るい月があるならそれを方位磁針にすれば問題ないと諭され。飲酒運転になるといえば、この量の酒が入ってもいつも貴方は飛んでいるでしょうと正論を言われ。夜風で体調を崩すと言えば、突っ込みが面倒になったレノックスに先生は魔法使いでしょうと一蹴された。風防を取り付けたように体に当たる風を打ち消すことなんて造作もなかったし、もっと言えばアルコールを飛ばすことも、明かりがなくても夜間飛行を行える程度に夜目を効かすこともできる。
 年若い魔法使いならば全てを同時にこなすのは難しいだろうが、もちろん二人とも若いとは言えない齢である。
 全てはフィガロの最後の悪あがきだった。結局賢者様の忠告をぞんざいに扱うのかという言葉で、行くと宣言することになった。

 いやこんなくだらないことは賢者の忠告の内にカウントされないと思うけど、と遅すぎる反論を思いついたのはもうすでに中央の国から南の国へと塔を通って移動し、そこから夜空に箒を走らせて十分ほど経った後だった。一晩中起きているので自慢の口も頭も平時に比べてだいぶ鈍っている。
 ちなみに塔を勝手に使うことについて、二人とも若干の躊躇いがあった。しかしここまで来たところで引き返す方が面倒な段階までたどり着いてしまっていた自覚は両者ともにあった。それゆえレノックスは「まあ賢者様の忠告を守るためですから」といういつもに比べてだいぶぞんざいな言い訳を放ちエレベーターに乗り込んだ。彼もかなり思考に霞がかっているようで、ちょっと笑えた。
 さすがに居眠り運転は笑えないので、箒に乗る前に眠気覚ましの魔法をかけてやると、対するレノックスは手を出すように言った。何かと思って左手を出すと、その手のひらにころりとシュガーが数粒落ちた。

 晩夏、南の国は世界で最も暑くなる。しかし日光の照りつけがない朝方は思うよりも涼しい。また、空気が乾燥してどこの国よりも埃っぽいが、これもまた朝方には空気が澄むようになる。まだ世界が目覚めていないような夜中だが、肺腑に自然の空気をたっぷりと取り込んで、それから二人は箒に跨った。

 ティコ湖は南の国の辺境もいいところで、先ほど通ってきた南の国の塔からも結構な距離がある。実際賢者と来た時には時間をかけて移動した。それは旅慣れしていない人間と共に向かったからで、頑丈な魔法使いだけならどうということはない。簡単なことで、高度を取って移動してしまえばいいのだ。そこまで飛べば道の邪魔をする生き物もいないので、何かにぶつかることを心配せずにかなりのスピードで飛ばすことができる。
 具体的に言えば高度四千メートル以上。箒をふわりと浮かせた後、柄を空に向けて緩やかに加速させる。周囲に漂っていた緑の香りも、あれほど存在感のあった大樹も置き去りにして更に更にと上空へ向かう。全てがちっぽけになっていく中で、地上から離れるために感じる心地よい重みが全身にかかる。それを楽しんでいると、四千メートルなんてすぐに到達してしまう。先頭を行くレノックスが箒を水平に保つと、フィガロも名残惜しく感じながら同様の態勢をとる。
 上ってみて周囲を見渡してみると、まず目に入ったのは大いなる厄災だった。夜空にぽっかりと穴を空けるように青白く輝く月は、不吉の兆候だとしてもその美しさに異を唱えるのを許さない。星々も見えるものの、月の光に圧倒され、かすかにやわく光るのみだった。足元を綿菓子のような雲が切れ切れに飛んでいく。そこまで雲量はないので、天体観測に問題はなさそうだ。
 魔法使いは、脆弱な人間があっというまに病気になってしまうような超高空を飛んでいる最中であっても、会話を続けることは容易にできる。元々夜が明けるまで語り合えるだろうと予想していた程度に話題は尽きなかったので、とりとめもなく話しかけるフィガロにレノックスが相槌を打ち、レノックスの問いかけにフィガロが答え、と何往復かさせる内に目的地が見えてきていた。

 水が豊かに湛えられた湖は今晩も美しい。水面のきらめきが近付くにつれて露わになっていく途中で、フィガロは悪態を付きたくなった。
 月の下にムーンロードが出来ていた。別に海でなくてもできるらしいその輝きは、フィガロに一片の過去を一瞬想起させる。
 けれど、それだけだった。
 悪態を付きたくなっても具体的な言葉が浮かんでくる訳ではなかったし、あの海の冷たさを思い出してもそれ以上何か感傷が滲むことはなかった。フィガロとムーンロードの距離感はそんなものである。かつて湧き上がっていた一言では言い表せられない感情も、長い年月を経てすっかり擦り減り摩耗して、慎重に取り出してやらないと出てこないものになっていた。
 レノックスが振り返った。よもや何かを感じ取ったかと驚いたが、そんなことはなかった。そろそろ降ります、と目線で合図を送ってきただけだった。
それに頷きながら、降下姿勢を取る。何故だか彼はムーンロードという言葉を知らないように思えた。心は知らないものならばあっさり見過ごすように出来ているので、あれはなんでしょうか、とか、月光が綺麗ですね、とも言わないような気がした。

 ふわりと湖の外縁に降り立つ。フィガロは隣に立つレノックスを見上げると同時に夜空を見上げる。星を見てみると、先ほどより見える星が多くなったような気がした。気のせいだと言われれば反論できない程度の感覚だったが。
 二人の間を風がしょうと鳴って吹き抜ける。
「……俺に何か」
「いいや?なんでもないよ。それよりどうしようかと思ってね」
 フィガロはついと目線を外した。

 星の湖は有名な詩人が題材にしたために観光地化されそうになったが、人間が来るのが非常に困難という経緯で微妙に寂れた地だった。
 天体観測に向いている地なのだから望遠鏡でも置いておけばいいものを、恐らく管理者がいなくてあっという間に葉が生い茂ってしまうのだろう、そんな風に時間を潰せるものはなかった。
 あるものは苔と草に覆われたベンチくらいで、そこでただ座って待っているのはもったいないような気がした。独自の植生を持つ地なので、ベンチの草を払うのにも若干憚られる。
 かつて調査に来た時のように水面の上を歩けば、と思いついたがレノックスが首を振った。帰りの分の魔力を考えると長い間立っているのは結構ギリギリらしい。
 ふむ、と案出しに詰まったとき、レノックスが二隻の小舟を見つけた。地面と湖の境界に打ち付けられた杭に、随分風化したロープで結ばれただけの観光用の舟だった。雨が貯まって船底が腐らないようにであろう、ひっくり返ったままで桟橋さえない場所で浮いている二隻の舟はどことなく哀愁を感じさせる。

 レノックスはその舟の内一隻をひっくり返し、両脇にしっかりとオールがついていることを確認した。必要なものを確かめていく無駄のない動きに、ついいつものように軽口を叩きたくなる。
「情緒がないね」
「……ここに情緒、必要ですか?」
「かの有名な星の湖にまでわざわざ来たんだ、少しくらい大切にしてもいいんじゃない?」
 そうですか、と気の入っていないような返事を舟に結ばれたロープをてきぱきと外しながら言われた。そういうところだよ、というのはやめにする。

 無事出発ができるような体制が整った。仕上げにフィガロの魔法で舟を綺麗にする。泥や湿気を払っただけで、根本的に綺麗にするのはフィガロの趣味でやらないことにした。この湖にある舟がまっさらな新品同様の舟だったとしても、興が削がれるのは流石に分かっている。
 オールは俺が、と言ってレノックスが最初に船に乗り込む。レノックスが後ろを向いて引くようにして漕ぐのだ。じゃあお言葉に甘えて、とフィガロは進行方向に向かって座った。

 ぎい、と重い音を響かせて舟は誰もいないティコ湖を滑り出した。風がワルツのように踊る軌跡を、さざ波がぴったりと追従してその水面に描き出す。星の湖と呼ばれるだけあって、星の微かな光でさえも、波が取り込んで何倍ものさんざめく光に変えていた。
 月光は言わずもがなである。その蒼い光が作り出すムーンロードに差し掛かった時は、舟の側面が幻のように光りさえする。
「きれいだねえ」
「そうですね。ですが、まだ大いなる厄災の光が強い」
 これ以上求めるのはだいぶ強欲な贅沢者な気がしたフィガロは笑って、そのまま寝転ぶようにして空を見上げた。
 視界の果てまで満天の星空が広がっていた。
 いま舟の上で寝そべっているフィガロにとって、今宵の星空はあんまりにも近く感じるものだから、手を伸ばして星を掴もうとして、やめた。この星空と自分の間に何かを介入させるには、あんまりにも無粋に感じたからだ。
 夜空を飾る星々の瞬きを眺めながら、この小舟のオールを漕ぎ続けているレノックスを思う。こんなにも綺麗なのに、頭上を見上げないのはもったいなくはないかと。声に出して呼びかける前に、オールが船の中に入れられた音がした。そのまま人工的な音が消え、耳に入るのは風の唸りと船底を叩く水音だけになった。静かな湖の中心で、彼とこの眺めを共有していることが不思議な心地がした。

「……『星の湖』について、どう思いますか?」
「なに、急に。詩のこと?……情緒を考えてくれたの?」
「そうです」
 レノックスが穏やかに笑った気配がした。確かにこの場所でいつものように世間話を始めたらちょっと突っ込みたくなる気がしたので、レノックスが提供してきた話題にしてはいい話題だ。
 星の天幕を眺めながら、心中で詩を暗唱する。

「僕の瞳は星の湖。
あふれそうなほど美しいきみを、
歓びと共に湖面一杯に映し出す

僕の瞳は星の湖。
空から落ちて、違う星にたどり着いても、
遥かなきみを一途に見上げ続ける

きみが涙をこぼした時だけ、
幾千の雨が降り注ぐ灰色の湖のように、
僕の瞳は悲しく曇るだろう

僕の瞳は星の湖。
永遠の愛で、きみを見つめている」

「そうだねえ。やっぱり直情的な愛の詩だよね」
「直情的、ですか」
 フィガロが二千年生きてきた中で、詩を目にする機会は多い方ではなかったが、それでも他の南の国の魔法使いよりはたくさん読んできたのは間違いない。
「どの連も最後の言葉で韻を踏んで読みやすいし、何より気持ちが真っすぐ伝わってくるよね。でも第三連で変化を加えるなら、もうちょっと捻るか逆にもっとストレートに表現した方がいいかもしれない」

 脳裏に浮かぶのは紙で作られた本すら満足にない時代、謡われた韻文だ。あの頃は古くから伝わる伝承が上手く伝わらないと、ときに村を全滅させる危険があった。だからこそ人々は皆必死になって口伝で様々な情報を覚えようとした。リズムや韻を付けることはその工夫の一つで、これによって覚えやすさが格段に変わる。
 フィガロはこの時代以上に見事に作られた韻文に準ずる詩を見たことがなかった。その観点からいくと『星の湖』はむしろ散文に近い。散文ならば散文に振った方がよい、という技巧的な判断からこうした感想が出た。

 ざわ、と大気が揺れ始める。不思議の力があるこの世界で、古くから土地に伝わることを貶すと大体よくないことが起こるのは常のことで、ティコ湖も例外ではないらしい。レノックスが険しい顔をする。このことを教わったのは何のことはない、フィガロ本人からだったので。
 フィガロはルチルと賢者が見たという人魚のことを思う。この騒めきも彼女が作り出しているものなのだろうか。真相は追うつもりはない。自然界にいるものの反感を買ったらやるべきことは大体決まっている。

「でもさ、こんなことどうでもよくなるくらい、この詩人は愛情を表現したかったんだろう。それが伝わってきて、俺はこの詩が好きだよ」
 風の騒めく音も、さざ波が立てる音も、舟の軋む音も、一瞬しんと静まり返る。
 その後最初に聞こえ始めたのは舟を叩く水音だった。穏やかさを取り戻した自然の中で、レノックスが深く息を吐く。
「いったいどんなつもりですか先生……」
「課外授業だよ。この詩について批評する危険さがわかっただろう?」
「情緒はどこへ行きましたか」
「あはは、おまえに言われたくないね!」
 けらけらとフィガロが笑う。寝たまま笑ったので、がこがこと木製の舟の軋みが直接頭に響く。それすらも愉快に思って、腕を頭の後ろで組み、加えて足もそのまま組んだ。まるでこの舟の王様になった格好で、レノックスに問う。
「さて。俺が答えたんだ、レノの答えも聞きたいな」
 この時点でフィガロは、長い間回答を待つ気分でいた。レノックスは慎重に言葉を選ぶタイプなので、「どう思うか」なんていう抽象的な問いかけに間髪入れずに反応できるとは想像がつかない。下手なことを言うとどうなるかをフィガロが先んじて示したので、更によく考えるだろうと予想していた。

 しかし予想に反して、返事はすぐに返ってきた。
「短くていいな、と思います」
「短くていい?」
 はい、と答えるレノックスはどこか遠くを見つめるかのように眼鏡の中の瞳を細めた。
「短くて、「きみ」の美しさを書き留めておこうと思ったけれど、「きみ」を見つめる時間を削りたくないという狭間でこれを咄嗟に書き上げた感じがして。」
 ふわりと舟を取り囲む空気が柔らかくなった気がする。だいぶ現金だな、とこの湖に住むらしい人魚に文句を言った。もちろん口には出さない。
 「きみ」のモデルにさえも満足される解釈を打ち立てたレノックスはそれでもまだ遠くを見つめていた。
「きっと書き上げてすぐに会いに行ったような気がします」
 そこでフィガロを見て、笑った。
「どうでしょうか、先生」
「百点満点をあげよう。ていうか空まで晴れてきてない?」
 先ほどまでは少ないながらも雲が飛んでいた。しかし改めて空を見渡してみると、今や一片の雲も見当たらない。

 そこでフィガロは気付いた。先ほどよりも明らかに星の瞬きは強く、大いなる厄災の輝きは弱まっている。
 夜明けが近くなっている。
「レノ、俺の間違いだったよ。今日の星空は本当に綺麗だ」
「満足していただけたようでよかったです。俺も無茶言ってすみません」
 そういってレノックスは、辺りを軽く見渡した。何かを確認するように。その仕草が唐突だったので、何かあったのか、よっこらせとフィガロも身を起こす。
 身を起こしたフィガロになぜか少し慌てた様子で、レノックスは言った。
「なんでもないです」
「そう?」
 そう言ってフィガロはすぐにまた寝っ転がる。別に本人がなんでもないと言うことをあえて気にする必要もないと判断した。それより今はこの星空の輝きのピークを見逃さずに見ていたい。

 そんなフィガロにレノックスは一瞬目を丸くして、それから堪えきれずに噴き出した。
「レノ」
「いえ。先生はその体勢のままでいてください」
 窘めるように名前を呼ぶと、なぜかそう言われる。小さな声で、「成功するか分からないので」、そう言ったのも耳に入った。何かするつもりかと、言われた通りに大人しく待つことにする。
 星空は刻一刻とその表情を変化させる。瞬きの間にさえ姿かたちが変わっていくようだ。
 その時ふと、辺りにレノックスの声が響いた。
「《フォーセタオ・メユーヴァ》」
 先生へ向けた秘密のサプライズは魔法を使ったものらしい。花火でも上げるのか、と一瞬思って、いや星空を見るのにそれは最悪の選択肢だろう、と自分で自分の考えを打ち消す。

 呪文が響いても辺りは静謐なままだった。星は輝きをだんだん増しているが、魔法で輝いているというわけではなさそうだ。
 何をやったのか想像するフィガロは段々わくわくしてきて、辺りに特別な何かが起こっているとするならもう既にサプライズは成功したも同然だった。
「先生わくわくしてきちゃった。起き上がっていい?」
「どうぞ――成功しました」
 がばりと勢いよく起き上がる。目の前の風景を見た瞬間、フィガロは息を呑んだ。

 レノックスのむこうに、壮大な銀河が広がっていた。

 幾千幾万の星とミルキーウェイを背負い、レノックスの輪郭はやわく、青く光っていた。いくらなんでも夜空の星々だけでこんなにも辺りが輝いているのはおかしい、と視線を湖面に向けた瞬間、わ、と声が出た。
 水面が完璧な鏡面になっていた。先ほどまでは乱反射して散らばっていた星影も、遥か彼方の上空の景色をそっくりそのまま持ってきたかのように、その全てがぴたりと定位置に収まっている。あれほど風と共に踊っていたさざ波はどこを見ても面影がない。
 改めて風景全体を見渡してみると、どんな絵画でも切り取ることのできない一瞬が広がっていた。無秩序にどこまでも広がる光の粒子の奔流、空と湖の間に挟まって額縁のようにすり鉢状に広がった山の稜線、風が夏の緑の匂いを運んでくることすらもこの情景の彩りとなる。

 フィガロはほう、と息をつく。その息すらも吸い込まれていきそうな絶景だった。
「すごいじゃない、百点満点中百二十点だよ」
「俺もここまでできるとは思いませんでした」
 多分何かしらが手を貸してくれたんでしょうね、と続けた。聞けば、レノックスが使った魔法は水面の上を油のようなもので押さえつけることをイメージした魔法らしい。
 具体的なものをイメージすることで魔法は豊かに変化できるようになると教わって、初めて実感できたかもしれません、とレノックスは言う。確かに以前フィガロが授業中にアドバイスしたことだった。
 そういえば彼の得意な魔法は力を抜いたり、分散させたり、逆に押さえつけたりする「力」に関係する魔法だった。フィガロがこの魔法をやろうとしてもレノックスが使う何倍もの魔力を使って実現させることになるだろう。彼に惜しみない賛辞を贈った。

 種明かしもそこそこに、二人はこの光景に思い思い浸る。言葉は必要なかった。ただ、この完成されたままでいる時間があと僅かばかりの空間を共有することが心地よかった。
 ふとフィガロは水面に映る、朝の気配に弱まっていく月を見た。夜の間はあんなに燦燦と我が物顔をしていたのに、すっかりその雰囲気はかき消えていた。それを見て、あっと気付いた。ムーンロードが消えている。ムーンロードはさざ波で出来るものであるので、当たり前といえば当たり前だが、レノックスの魔法で跡形もなく消え去っていた。

 弱々しく蒼く光る月を眺めながら少しの間ぽかんとしていた後、ふふ、とフィガロから笑みが零れる。この男と一緒にいると、こういうことが結構ある。
 レノックスは良くも悪くも、わずかばかり己の琴線に触れてくる行動をする。賢者には悪い時のものを「あーあ」で表現したが、良い時のものが、今日のこれだ。
本人も意図せず出てくるそれが楽しくてしょうがないので、多少イラっとしても付かず離れずの距離を保ってきたし、なんなら構ってきた。
 しかし今まで、多少癇に障ったら、それで終わりで手を引くことにしていた。それ以上彼に幻滅したくなかったし、幻滅する自分も自覚したくはなかったからだ。
 今日が初めてその壁を打ち破った日かもしれない。
 間違いを謝っただけでなく、それを確かめるための道中も思ったよりも楽しんでいる自分がいた。魔法舎をこっそり抜け出すことも、南の国の上空を夜間飛行したことも、もちろんこの壮麗な眺めを見たことも。
 恐らくこういう日ばかりではないことはなんとなく予想がつく。わだかまりを解消しようとしたところで、胸に釈然としないものが落ちる日がきっと来る。それでも、初めて解消しようとして、得た結果がこれで良かったと心から思えた。これで何回衝突とも言えないような衝突を繰り返そうと、それを解きほぐすことが無駄ではないと信じられる。
 何故だか、隣に座るレノックスも同じことを考えているような気がした。

 夜空がその暗闇の濃さを手放し、段々と朝日を迎える準備を始める。白み始めた景色の中、幻のように消えゆく星々が映る湖にフィガロは手を突っ込み、星を掬う。
 星は掴むこともできずに消えていた。けれどそれが、これからの自分たちが歩むことのできる道を示しているように思えた。
 簡単に掴めるものではない。かといってあっさり掴めたらそれはそれで面白くないだろう。だからこそ興味が出るものだ。
 風がしょうと吹き、夜明けの訪れを告げた。

Fin.