シャドーハウス見ました、予想がいい方向に裏切られて面白かった!
手のひらサイズのエミリコがいてほしいです。自分の部屋に。(真面目じゃない感想)
ふっとジブリ的物語からハリウッド的物語になってるな~って感じました。(真面目な感想)
あらすじ
貴族の真似事をする、顔のない一族「シャドー」。その“顔”として仕える世話係の「生き人形」。
来客のない奇妙な館には、今日も煤と黄色い声が、舞う──。
序盤・ジブリ的な物語の作り
不気味な洋館、顔のないシャドー、それにそっくりな生き人形。閉じられた世界で、多少の違和感は感じつつも主人公・エミリコとケイトは主従の関係で暮らす。
「シャドーとは何か?」「生き人形とは何か?」それを読者も感じながらも、大きな事件のない平和で穏やかな日常を送る二人を見て、そういう世界なんだなと納得するようになっている。
強烈な違和感を感じるのは、おそらくサラとミアのペアが出てきたとき。「顔として振る舞う」という本当の意味を実感できたのはこのときだと思う。そこからシャドーハウスの世界観に没入することができる。
あのシーンを三話以内に持ってきたのはたいへん秀逸な作りのアニメだなと感じた。まどマギからとりあえず三話だもんな。さすがです。
こうステレオタイプに語るのもよくない話だとは重々承知だが、日本は何らかの環境に(違和感を抱こうが)順応していく話が多い気がする。
千と千尋の神隠しでは、湯屋は「神様をもてなす施設」として以上のことは語られないが、千尋はそこでなんとか働く。湯屋のシステムがおかしいとして千尋はみんなに知らせたりしない。
与えられた環境の中で正当に働き、両親と帰る権利を得る。
ハリウッド的になるとどうなるか?千尋はみんなにおかしいと知らせて、湯婆婆に対してボイコットなり起こそうとするだろう。
シャドーハウスの後半である。
後半・ハリウッド的な物語に
試験を乗り越え無事生き残った二人。それからケイトは生き人形は人間で、シャドーは妖精のようなものであるとエミリコに告げる。
真実を知ったエミリコは「生き人形が人間なら元の村に帰してあげたい」と言うが、その二人に危機が迫る。
試験が終わったあとに怒涛の情報開示が示される。もうちょっと引き伸ばすのかなと思っていたけれど、想像の倍早くて驚いた。
もっとも、生き人形が人間であるというのはエミリコが怪我をする描写で察することができるようになっていたので適切なテンポなのかもしれない。現代のアニメだなあと感じる。
世界の真実が明かされたとき、頑張ってそれを覆そうとしたり脱出しようとするのはハリウッド的な物語である。連想されるのは「約束のネバーランド」とか。
ただ1期目というのもあって完全なハリウッド的な物語になった、とは言い難いラストだった。最後のエドワードとの戦いは「みんなを元の村に帰してあげる」ための戦いではなかったので。
2期ではおそらくこの問題の本丸に取り掛かっていくんじゃないかな~と思います(未視聴)が、どうなんでしょうね?
世界の歪みを直したいという物語において必ず取り上げられ(てほしいと思ってい)る問題として、「本当にそれを正してみんなが幸せになるのか?」という問題があります。
これを考えて踏みとどまってジブリのような話になっていくのも面白そうだし、考えをまとめて「幸せになる」って結論付けてハリウッドみたいな話になるのもヨシ!っていう結構おいしいところで1期が終わりましたね。
エミリコならおじいさまも説得しそうだし、ケイトと同期のみんなで脱出劇・革命も面白そうってことでどっちに転んでもおいしい。
そもそも予想が裏切られてきた話なので、この型通りにいかないかもしれないですね…!二期、期待!
ジブリとハリウッドの物語の対立ってどっかで聞いたんだよな~と思ったら多分これでしたかね……?だいぶ昔に読んだので正直うろ覚えです。
すんごい余談ですが、手のひらサイズのエミリコを想像しちゃったのこの曲のおかげです