Q.いまさら君の名はですか?
A.当時のパンフレットが部屋から発掘されたので。むしろ7年前ってマ?
前提
君の名はは、「夢と知りせば覚めざらましを」とか「とりかえばや物語」とか、有名な古典を参考にしたからヒットしたっていう説があります。
今回は別の切り口の作品を参考にしたからヒットしたのではないか?という説を考えていきます。
「百パーセントの女の子」
村上春樹の短編に「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という話があります。
そしてこれは、「君の名は。」でも参考にされた話だと言われています。
4月のある晴れた朝、原宿の裏通りで「僕」は100パーセントの女の子とすれ違う。50メートルも先から「僕」には、彼女が100パーセントの女の子であることがちゃんとわかっていた。正直に切り出した方がいいのかもしれないが、咄嗟にかける言葉が「僕」には思いつかない。気が付けば彼女は雑踏に消えていた。
じつはこの短編、古いにも関わらずめちゃくちゃ評価されています。この短編のすごさを挙げるなら、一目惚れをしたことのない人でもこういうことってあるかもしれないと思わせられる話だというところでしょうか。
ちなみに私はハルキストではありません(そんなに彼の著作を読んでいない)。
話を戻して端的にいえば、これは君の名はのラストシーンに置き換えられます。
すれ違う運命の二人。彼ら彼女らには、百パーセントの相手だとわかって思わず電車を飛び出します。
君の名はって運命の相手を探す話なのか?
そう言われるとイマイチぴんときません。
このぴんとこなさに、君の名はがよく作られた物語だと感じます。
多分「運命の人を探す」という目的を持つ物語は、そのまま出すとちょっと純粋すぎて引いた態度で見られてしまうのではないかと思います。村上春樹作品もそんな風潮があるのではないかと疑っています。
でも、「運命の人を探すことができた」ことによるカタルシスは、人間みんな感じることができるものなのではないかとも思えます(生物学的に考えてみても)。
君の名はには、優れた点がたくさんあります。シーンごとの場面構図とか。でも、その中に「自覚させないまま人々の欲望を満たすことができた」ということもあるかもしれない。そう思っています。